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Economic Notes 経済学草稿

経済と経済学についての認識
 
振り返って、自分は経済と経済学についてどのような認識に到達したのだろうか。幾つかのポイントに分けて述べて記録しておくことにしたい。

支払い手段としての貨幣
 貨幣を支払いにおいて用いるのは、債務が発生していて、その債務が貨幣の支払いによって清算されるからである。
 商業取引の原初的形態は、商品を受け取り、それに代価を支払うことだが、やがて掛け取引、信用取引が始まる。信用取引においては、商品はすでに受け取られており、商品の授受に遅れて支払いが行われる。
 掛け取引を、売った側からみると売掛(うりかけ)債権、買った側から買掛(かいかけ)債務が発生しており、支払いはこの債権債務状態の清算である。 

貸付の発生と利子の合理性ー擬制資本
 では期日に支払われないときはどうするか。自動的に貸付が行われないときは、債務不履行となる。企業であれば債務不履行を避けるために、金策に奔走することになる。金策は、借入もあるし、預金の取り崩し、保有資産の売却、ほかの支払いを延期する、など様々な方法がある。ここでは仮に借入が可能だったとしておこう。
 この借入の貸付は、債権者が行っても良いし、第三者の貸付業者が行ってもよい。そこで発生するのが利子である。この利子の請求にはどのような合理性があるのだろうか。
 貨幣が時間を経過とともにより多くの貨幣を生み出すということが人々の意識に一般化した段階で、貨幣の貸借時の利子には合理性が生じたのではないか。私は、農業において種を蒔いて収穫するというプロセスがこの観念を生み出したのではないかと考えている。だからこそ、利子の発生は農耕とともに古い。身分制社会が終わり、資本制生産社会が始まる前から利子は存在していた。
   今日、利子の大きさは借入する者の信用リスクにより大きさに差がでる。たとえば、貨幣発行権や税金徴収権をもつ国はもっとも信用リスクが低いと考えられている。国の債務利子(国債利子)は、もっとも当該国で低利と考えられる。
   利子の大きさがこのように導けることから、利子の金額から、その利子の金額を生み出す元の資本の大きさを導くことができる(①)。このような計算を資本還元と呼ぶ。ここで導かれた大きさはただ計算で導かれたモノであり、架空のものである。架空資本(擬制資本fictious capital)と呼ぶことにしよう。

  利子の金額/利子率 = 元の資本の大きさ       ①
      利子の金額     = 元の資本の大きさ×利子率     ② 
  
   企業経営者が借入れを行う場合、それぞれの企業の信用リスクの大きさは、各企業の信用リスクの大きさを反映することになる。

信用リスクを低める手立て
 貸し手にすれば、信用リスクを承知で貸し出すには、貸出金を担保するさまざま「保証」が必要になる。これには物的担保と人的担保とがある。物的担保とは貸付金額と同等以上のモノを貸付側に差し入れること。人的担保とは、借り手が返済しない場合、借り手に代わっての返済を第三者が請け負うことである。
 企業経営者が借入れを行う場合、それぞれの企業の信用リスクの大きさは、各企業の信用リスクの大きさを反映することになる。信用リスクの中身を考える。返済の意思の真実性に差異がないとすれば、各企業の財務状態、事業リスクが影響する。その企業のCFを見て、流出と流入の差が返済を賄うのに十分であれば、貸付企業としては安心できる。
 個別企業の借入利子=国債利子+各企業の信用リスクプレミアム
 もともとの利子の大きさの特徴は、借入時点で大きさが決定されているという点である。現代では変動金利があるが、そのことも含め、借入時点で利子の大きさが約定されているとと表現しておく。

中央銀行
 現代において、政府の銀行でもある中央銀行の銀行券が貨幣となっている。中央銀行券はかつては金貨と兌換される、兌換銀行券であった。現在は、金貨と交換されないという意味で不換銀行券である。兌換されていたときには、中央銀行の価値は金貨という実物資産の価値に裏付けられていた。不換になっても支払いに受け取られるのは、政府がそれを法律によって法定通貨に定めている(強制通用力の付与)からである。中央銀行券の信用力は、金貨ではなくそれぞれの政府によって裏付けられ、強制されている。
 国際間の取引では一国の法律による強制力は効力を持たない。今日国際通貨として通用力の最も高いのは米国のドルであるが、このドルに対する交換比率が日々存在することで、国際的な決済が成立している。
 外国通貨との交換比率は為替相場とも言われるものである。他方、ある国の通貨を取得すると、その国でものが買えるし、あるいはその国で資金運用ができる。そこで理論的には、各国で購買力や金利収入に差がある場合、それらを均等化するように為替相場が変動する。短期的には金利収入格差を均等化する方向に、また長期的には購買力格差を均等化する方向に為替相場が変動することが知られている。


資本制生産
 先ほど資本制生産という言葉を使ったが、資本制生産が古代からあるように考える人もいる。しかし身分制社会が、「産業革命」以降、資本制生産が広がってからと壊されてきたことは確認できる。たとえば江戸時代において、農民(百姓)とされた人は百姓で、商人は商人、武士は武士だった。こういった身分制社会が、日本でも明治時代以降、壊されていったことは事実ではないだろうか。つまり身分制の解体というのは、資本制生産の明確な標識ではないだろうか。その意味で日本は、明治時代以降、資本制生産社会になったといえるのではないか。
 資本制生産社会では、資本を所有する資本家と、賃労働をするしかない労働者とが現われる。資本家は資本と労働者の労働力とを用いて、生産活動を行う。資本制生産社会は、資本家と賃労働者という新たな階級を作り出したともいえる。
 ただそれまでの身分制社会と異なるのは、形式的には階級間の異動は可能である。私の考えでは、この階級内そして階級間の移動が可能である場合、資本制社会は競争による平等性が確保された社会と表現できる。そこで、階級内での位置や、階級間の移動が、確保されているので、地位の上昇は個人の努力の結果とみなされる。成功失敗は個人の努力の結果というイデオロギーが社会に蔓延している。しかし各人が、生まれた最初の位置(所属する家族やコミュニティ)は、各人の努力の結果の結果と言えないし、各人が受け継ぐ先天的な能力にはそもそも差があるという問題は残る。

資本家間の競争
 ここで見落とされてならないのは、実際の資本家は、競争しており、生産活動によって利益を上げるのは、容易ではないことである。
    とくに企業が生産するものの消費するものが、一般大衆が消費者の王様になるほど(大衆消費社会)、モノが豊穣になると(商品生産の一般化)、生産すれば、確実に売れて利益が出るわけではなく、消費者の好みを考慮した生産をする必要があるし、販売宣伝などで消費者を刺激する必要もでてくる。
 このように消費者のニーズに合わせてきめ細かく生産するには、市場経済あるいは競争社会を維持する必要がある。これが、ソビエトロシアそして中国で実施された計画生産から得られた教訓である。計画生産社会では、モノ不足が起きても誰もそのことに責任を取らず、行列したり賄賂を渡して入手することが生じた。品質やサービスの改善に無関心であることが広がった。そうした社会よりは、企業経営者が消費者のニーズに関心を持ち、品質やサービスの改善が図られる社会を私たちは望んでいる。
 しかし市場経済を維持するということは、企業が競争すること、競争に敗れた企業が退出すること、新たに企業を立ち上げ、市場に参入すること、これらが認められることを含んでいる。それはさらに各個人にとっては、失業したり、目指すポストが得られないという問題(人生における競争)があることを意味している。市場を通した競争に比べて、組織における競争には、人が評価するため縁故による優遇が生じやすいなどの不合理な面がある。客観的な評価が成立するように工夫が不可欠である。

競争することの問題
 市場での企業間の競争は結果として消費者のニーズに合わせた生産をつながるわけだが、それでは入学、教育評価、就職、仕事の評価、と続く人の人生での競争は何を意味しているのだろうか。競争に落後した人は、価値が低い人なのか。実は、市場競争の背後にある人の競争の問題に関してときどき思うのは、競争で敗れた人達は、皆いい人たちだったということだ。それにも拘わらず、そのよい人を傷つけることがこの社会では生ずる。また心の中にいつまでも残るのは、困難なときに助けてくれた人。また逆に、路を塞いだ人の心のなさもいつまでも記憶に残る。しかしこうした思いが残るのは、この世が競争社会だからと思う。つまり競争社会には明るい面と暗い面の両面がある。市場競争を認めるということは競争社会を認めることだが、その暗い面をどのように解消するかの対策が必要だということでもある。

資本制生産と計画性生産
 資本主義生産は計画性生産と無縁ではない。企業は、自ら販売計画、生産計画を立てている。ただ販売は一般的には見込みである。その販売動向をみながら(販売見込みとの乖離は在庫に現れる)、生産計画の修正が行われる。商品の性格によっては、在庫は廃棄とか、値下げ販売につながる。企業は、この在庫の最小化(最適化)を常に追求している。
 硬直的な計画生産にあっては、この修正が行われず放置される。これに対して資本制市場経済のもとでは、価格と利益の変動がシグナルとなって、生産の過不足の修正が行われることを期待できる。この期待を実現するためには、市場が競争的であること、企業経営者が、価格・生産・投資などを独立して判断できること、結果としての利益が企業に帰属すること、などの条件が必要である。
 資本制生産の特徴として、封建時代の身分制社会からの脱却をすでに上げたが、もう一つの特徴は、市場の価格と企業の利益というものをシグナルとして、生産の調整が行われる社会という点を挙げることができる。

価格変動による利益の容認
 このような市場経済では、需給変動により価格が変動して利益が生まれたり損失が生まれたりする。市場経済を認めるということは、このような価格変動による利益を容認することを当然に含んでいる。一部にはこのような利益を毛嫌いする人がいるが、市場経済を容認するということは、このような市場価格変動による想定外の利益変動を認めるということである。発達した市場はたとえば、保険や先物の形でリスクヘッジの手段を提供している。価格変動はリスクではあるが、そのリスクをある程度ヘッジすることは可能である。

利益の不確定性
 では利益(利潤)とは何か。企業経営者が、企業経営のリスクを負担することによって生み出す利益のことである。利益の大きさは事業活動の結果として、生み出されるものであるので、事前には確定できない。貸付業者からの借入は、しかしこの利潤より低いのでなければ、そもそも実現しないであろう。つまり、貸付が存在する条件は、一般的には以下のような条件が成立していることだと考えられる。
          予想利益率>利子率
 しかしもしこのような条件が存在するのであれば、債務返済のための借入から進んで、さらには事業規模を拡大するために債務を拡大することへの大きな誘惑が、企業経営者には働くように見える。単純にそうならないのは、そもそも予想利益はあくまで予想で不確定であること、また事業規模拡大自体にもリスクが存在するからだ(規模拡大自体が容易ではないからだ)と考えられる。

流動性への対価
 利子率の大きさには、貨幣の流動性を手放すことに対する報酬だという考え方(流動性選好説)もある。確かに人(企業でもいい)が手元資金をすべて、投資に振り向けないのは、現金の流動性が評価されているからだ。現金の流動性は、不確定性が高まるような状況のとき、評価があがり、将来の見通しが明確な時には、評価が下がる。

リスク資産への評価
 さまざまな投資資産があるとき、投資資産のリスクの違いから、投資資産がどのように選好されるかは変化してゆく。ここで、株式と国債という二つの投資資産から上がる収益をそれぞれ、rとiだとすると、一般的にはr>i。その間差が広がると、株式への資金流入が増え、間差が縮小すると、国債への資金流入が増える。事業環境が良くて、企業収益の拡大が見通せるとき、rはiに比べて順調に拡大する。こうした時に、株式への投資が増えることを、リスク資産である株式への投資が増えた、と表現する。
 国債が無リスクだというのは、言い過ぎであるが、発行者である国家は、企業と違い倒産リスクがないとして、国債は無リスク資産として定義され、その利子率は、リスクフリーレートrisk free rateと呼ばれることがある。


経済成長率と自然利子率の低下
 先ほど利子率が資本制以前から存在した理由として、農業において種をまいて、撒いた種より多くを収穫できることが、関係しているのではと述べた。それでは、発達した資本制経済で同じ問題(利子率の目安となる数値)はどこにあるのだろうか。私はそれは、経済成長率ではないか、と考える。この経済成長率の大きさが、利子率の目安になるのではないだろうか。
 経済成長率は、労働の投入量、資本の投入量、そして、生産性。この3つの要素の変化によって決まるとされている。そして先進国では、出生率の低下、人口の高齢化が顕著で、日本を含む一部の国は、総人口の減少に直面している。日本についていえば、先ほど3要素でいえば生産性の改善が進まず、国内資本投資が増えないなか、若年人口が減少し労働投入量が減少に転じている。その結果、経済成長率も低下。結果として、経済成長率を参照して推移してきた利子率も下がることになった。
   自然利子率とは、金融緩和でも金融引締めでもない景気に中立的な利子率のこと。経済成長率が下落すると、自然利子率も押し下げられる。

自然成長率の低下
 ハロッドの考え方で自然成長率Gnとは、完全雇用を達成した状態での成長率のこと。日本では人口の減少もあって、失業率は低下している。労働力人口を減少しており、自然成長率Gnも押し下げられている。
 設備投資(資本設備の増加)、技術進歩率(生産性)の伸びで労働力人口減少をカバーできず、Gnが低いか、ゼロ化した状態が、日本などの状態ではないだろうか。自然成長率の低下は、当然のように自然利子率を押し下げる。
 利子率の低下は、量的緩和政策の結果と理解されているが、そもそも自然成長率の低下により自然利子率が低下している問題も考慮されるべきだろう。

生産年齢人口の縮小
 少子高齢化による生産年齢人口の低下について、端的には現役時代に比べて稼得所得が急減する。高額の給与所得から年金と資産からの収入に依存する状態に移る。このとき、公的統計では、年金しかカウントされないので、実際以上に所得は急減する。このことは成長率のダウンにつながるのではないか。
 他方。高齢世帯の消費が、維持される背景には、このような年金以外の副収入の存在がある。一部の世帯は勤労を続けている。また低資産世帯では資産の切り崩しがあり、高資産世帯では配当・賃貸収入などさまざまな副収入がある。こうした年金以外の副収入は、統計上十分にカウントされていない。

自己資本の意義
 企業経営者の経営リスクを担保するのは、最終的には自己資本の大きさだと考えられる。債務である他人資本は返済せねばならず、債務への支払いは確定している。これに対して自己資本は返済を要さず、支払いは変動してよい。つまり自己資本は経営リスクを負担するリスク資本だといえる。
 では自己資本はどのように集められるのか。起業の最初の段階をみると、まずは関係者(縁故者)による出資である。つぎには、利益の留保(内部留保)である。
 自己資本の強化が必要になる理由は、経営者から見て、経営に対する干渉が少なく、利益配分をコントロールできることが大きい。例えば借入れは、経営に対する干渉を招くことがある。そのことにより、企業のガバナンス(統治)が改善されるという見方がある反面、経営上の自由度が損なわれることがある。そうした意味で関係者による出資や内部留保が、経営者に好まれる。

事業主体としての株式会社
 
株式会社の登場の意義はさまざまに考えられる。もっとも大きな問題は、出資者(株主)と経営者が分離するということではないか。つまり経営者は必ずしも支配的株主である必要はない。それでも経営者であるのは、全出資者(株主)に対して、誠実に経営を行う義務を負っている。
 なお株主は、出資の範囲で損失を受ける可能性がある、という意味で責任が限定されている(=有限責任)。株式売買という形で、その責任から抜けることもできる。株式が取引所の上場されると、株式には株価という市場評価がつく。
 株主は必ずしも企業経営に関心をもたず、単に保有資産としての株価評価だけに関心を払っても、構わない。つまり株主は、企業経営に不誠実であっても構わない。この状況(所有と経営の分離)において、企業経営に誰が誠実に取り組むのか(責任があるのか)という問題が生じている。ガバナンスが不徹底であれば、企業経営者が自己利益を追求するなど暴走する可能性があり、経営の在り方(ガバナンス)に社会全体が関わる必要も生じている。

取引所規制、国家による法規制、メデアによる監視
 
取引所による上場企業に対する様々な開示規制。国家による企業規模や業種に応じた各種の規制。さらにはSNSを含めたメデアによる監視。これらが組み合わさることで、企業経営の在り方を社会的に好ましい方向に誘導することが、必要である。
 他方で社会的に好ましい方向、これが正しく導かれるには、議論を支える調査・研究が十分なされる必要があり、言論や出版の自由が確保される必要があり、民主主義的な議会が存在し機能している必要がある。
 さて現在の日本は、これらのことをどこまで達成していると言えるだろうか。  

上場の意義:経営者は干渉を減らそうと行動する
 事業活動の拡大とともに、自己資本が不足するフェーズ(段階)が考えられる。関係者による出資や内部留保では、必要な大きさを賄えない場合。そのときに、関係者以外の外部からの資金受け入れが必要になる。しかし借入れは返済しなくてはならず、利子負担もある。望ましいのは資本金の増加である。では出資を受けるのはどうか。縁故先や取引先からの出資が考えられる。しかし多くの企業が目標として考えるのが、取引所に上場して(株式を公開して)、広く公募増資を行うことである。公募増資は、多数の株主を管理するコストが発生するが、小口株主の経営への干渉程度は、低いともいえるので好まれる。取引先などからの大口出資は、取引先との関係強化のために出資を受け入れる場合もある(第三者割当)が、経営干渉を招き企業経営者の選択肢を狭めるリスクもある。
 企業経営者は、基本的に自己への干渉を減らそうと行動する。しかし、時に個人的利益を追求すること(自身の報酬・待遇に引き上げ 自身の権威を高める人事・投資の実行)がある。そこで経営者を株主の代理者として、株主利益を追求するように圧力をかけることが正しいとの考え方がある。他方、経営者の側の言い分は、株主はしばしば短期利益(性急な利益配分や株価上昇)を追求し長期的な観点の投資に否定的である、長期的成長の観点から投資するなど、企業の将来を見て経営できるのは、自分たちだと考える。これに対して、株主のなかの大きな機関投資家は長期保有に転じており、必ずしも短期利益主義ではない、との指摘もある。誰が企業経営の担い手としてふさわしいか、正反対の議論が存在する。私は企業経営者の外部からの干渉を嫌うという視点から、全体を考えるべきだと主張する。
 なお上場(株式の公開)には、企業の認知度を上げたり、株式公開企業として企業の体裁(ガバナンスの仕組み)を整えるメリットがある。しかし、外部ファンドなどが株を買い占め、経営に干渉してきたり、あるいは、敵対的企業買収の標的になるリスクがないとはいえない。また、企業経営の自由度は、非公開企業に比べて低下する。株式未公開企業が上場する場合、こうしたリスク対策を十分事前に取ることが望ましい。

個別株価の不確定性と市場分析
 株式を公開することで、株式市場で株価が形成される。この株価について、「理論株価」を探す試みがさまざまに存在する。また比較基準になるものも、存在する。例えば、一株当たり配当、一株当たり利益、一株当たり純資産のように。これらと株価との関係をみた、配当利回り、株価収益率、株価純資産倍率は、確かに有用な数値で、多くの投資家が投資の参考にしていることは疑いはない。しかし株価というものは、ある「理論株価」に収斂するといったものではない。
 それゆえ「理論株価」を見つけようとする様々は探求を頭から否定する必要はないが、「理論株価」自体が常に変動しているともいえる。
 株式市場の投資利回りは、銘柄ごとにリスクプレミアムが異なり、かつそのプレミアムが絶えず変動しているのではないか。つまり資本還元できるとしても、求められる値は常に変動している。

   株式の個別投資利回り=利子率+個別の変動リスクプレミアム

 他方で、誰が市場に資金を投入しているか(株式を保有しているか)、誰が市場から資金を引き揚げているか(株式を売却したか)という情報は、確実な数値として捉えることができるので、私はこのような所有変動分析を主体に考えるべきだと考える。
 保有主体の変遷を市場全体の動向の変化(上げ相場、高騰、下げ相場、暴落)とを結びつけることには、十分な合理性がある。つまり、投資家として全体として、リスク投資を増やし、そのため市場が全体として上げ相場になったという分析は意味があるが、その相場の中での個別銘柄の時々の動きは、とらえどころのないものと私は考えている。
 個別銘柄の時々の動きは、(個人投資家の場合は)市場心理のようなものにも、(機関投資家については)プログラム化された動きにも左右される。

資産価格変動利益の容認
 資本制経済で市場を作るのはいわゆる商品だけではない。さまざまな資産も市場を形成する。株式はそのなかでも、企業業績を反映する点で、象徴的な存在である。ここで一言挟む必要があるのは、資本制市場経済を支持するということは、このような資産市場で生み出される利益をも容認するということを意味する点である。
 その意味で資産価格の変動による利益を敵視する考え方は、少し極端だと私は考える。

福祉国家とそしてケインズ政策
 
経済システムの在り方をすべて市場に任せる考え方が、市場経済だともいえるが、大きな例外が形成されている。
 資本家に対して労働者が組合を作って対抗することが認められている(憲法28条 勤労者の権利 労働三権:団結権、団体交渉権、争議権)。また失業に対して失業保険制度がある。退職後について年金制度がある。そして社会保障制度がある。社会保障制度には、社会保険(健康保険)、社会福祉、公的扶助、保険医療・公衆衛生の4つの柱がある。
 これらの制度の整備は何を意味するのだろうか。また、今日の国家は、市場経済の進行を市場に任せるだけでなく、景気悪化には景気の振興策をとり、景気過熱には過熱を抑制するように対応している。しかしこれは、経済システムをすべて市場に任せるという建前からは大きく変化している。
 まず労働者の権利とか、社会保障制度の問題に関しては、福祉国家という観点が重要である。労働者ーそれは国民の多くと言っても良いが、その福祉向上を国家が目指すように、国家の在り方が変化したということである。背景に私があると思うのは、国の政治の在り方の変化である。議会制度が始まり、選挙権が次第に成人国民全体に広げられた。国の政治は、国民の権利や福祉の向上を目指すものに、変化せざるを得なくなったのではないか。つまり、国家というものを個人と敵対するものではなくなっている(福祉国家論)。国家が福祉政策の担い手だとすれば、国家を個人と敵対するものとみる見方は一方的だといえる。
 その流れの中で、大不況のように大量の失業者が出るような場合は、国家が積極的に公共事業を行うべきだとの考え方―ケインズ政策と呼んで置くーが支持されるようにもなった。ここでケインズの名前を出したのは、景気悪化に対して、公共事業への支出を積極的に行うなど、景気調整的な政策-景気悪化すると税収は落ちるので、財政の収支均衡を重視すると歳出削減となる。しかし、それは政府が景気を悪くする方向に舵撮ることになる。そこでむしろ不況期はに歳出を拡大する、そのために不足する財源対策として国債を発行するなど、債務を敢えて拡大することを容認する。ーこうした政策をまさに推奨したのが、ケインズだった。つまり失業について、あくまで本人が失業を選択したという考え方に対して、ケインズは、市場に国家が介入して、公共事業を行ったりして積極的に総需要を押し上げることを提唱した。
 このような考え方(不況時の失業対策事業+社会福祉政策)が支持されるように変化したことは、資本主義の在り方からすれば大きな変化だった。現在、中央銀行が利子率を引き下げて景気振興を図ったり、逆に利子率を引き上げて景気過熱を抑制したり、といった金融政策をとるという考え方はその延長にある。この考え方は、経済が不況に陥ったり過熱したりといったことに対して、中央銀行が細かく調節することを認めているので、ケインズ政策以上に、国家(中央銀行)が、市場に介入することを認めていることになる。
 その結果であるが、資本主義の在り方は、国家の経済の介入の在り方という点で大きく変化したといえるのではないか。

資本制市場経済の問題の所在
 資本制市場経済については、株式会社経営を社会全体で監視するという一つの方向性がでている。しかしそうした方向では不十分で、資本制経済そのものを見直すべきだという意見がある。
 二つの問題が知られている。一つは競争原理を肯定するなかで、人々の間の格差が実は拡大、固定化しているのではないか、ということである。もう一つは、絶えざる成長拡大を追求する結果、地球環境の限界を超えても、なお自らそれに歯止めをかけられないのではないか、ということである。
 これらの問題に対して、修正の努力も行われている。たとえば、教育費を無償化する話は、家庭環境に左右されずに、教育機会を均等化しようということで、格差拡大を和らげようとする政策(再分配政策)である。環境問題を意識して、社会の目標値を、経済成長以外のところにおくべきだという主張は、後者の環境問題を意識したものである。

成長の限界あるいは定常状態
 
経済成長以外に社会の目標を置くべきだという議論がある。たとえば十分な労働時間の短縮、良好な自然環境の維持、子育て環境の改善、介護施設の充実、など色々考えられる。これは、一方で経済背長は先進国ではすでに十分ではないか、という問題意識が背景になっている。経済成長以外に目標を置くという発想そのものに、すでに成長は十分ではないかという問題意識が、垣間見える。
 これは脱成長あるいは、定常状態stationary stateという問題につながる。

反面教師としての中国社会主義
 資本制市場経済について、より根本的改革は可能だろうか。現在、存在する反対軸に中国社会主義がある。しかし、私自身は中国社会主義には幻滅している。議会制民主主義国家でない中国に幻滅する(ディストピア=反理想郷としての中国)。同じような幻滅は、ロシア社会主義についても感じる。
 中国に寛容な研究者の間には中国の現状に理解を示す者もあるが、私自身はこれらの寛容な意見には同調できない。その意味で米国が中国とのデカプリング(米中デカプリング)を進めることに、むしろ共感する。
 問題は、中国が議会制民主主義を否定し、共産党による独裁を維持していることである。このような中国の政治経済の在り方は「市場レーニン主義」と表現されている。共産党以外の政党が支配政党になることを許さない、このような政治体制を私は、支持することはできない。共産党の支配を覆すような、思想・信条の自由や、政治活動の自由は、事実上、中国では認められていない。こうした反対政党の存在を認めない中国は私の基準からすれば、民主主義国家ではない。
 私は経済の問題を語る前に、こうした議会制民主主義の維持を大原則として主張する。この原則を守る前提で経済問題の対策を考えると、格差の拡大を防ぎ環境問題の改善に向けて、社会的合意が取れることを積み重ねてゆくというのが、私の結論になる。結果として、格差の拡大や、環境問題の悪化を防ぐのに、この努力は遅れたり不十分であったりするかもしれない。しかしそうであっても、私は議会制民主主義を守ることを優先して一歩ずつ進むべきだと考える。

米中デカプリング US-China decoupling


US-China decoupling:米中ディカプリング。まずカプリングcouplingは結合という意味。その行為或いは部品を指す。Decouplingはその逆なので分離という意味。米中両国の貿易戦争が過熱する中、相手国からの輸入を制限から進んで禁止に至れば、過度な依存状態の修正(貿易摩擦trade friction)から進んで分離:US-China Decouplingを志向する段階に進んだと言える。両国の貿易依存関係の深さから、分離に至ることはないという解説がしばしばなされたこともある。しかしこれは台湾有事はない、と断言することと同じ、希望をのべているだけではないか。
 背景にある問題は、中国の経済発展が進めば、民主的な国になるという仮説(リプセット仮説Lipset Hypothesis, Seymon Martin Lipset 1922-2006)の崩壊である。実際には経済発展にもかかわらず、中国の民主化は進まなかった。あるいは独裁的な国で経済成長が生じた(開発独裁:development dictatorship)。むしろ習近平のもとで、個人的な独裁体制は強化されたと思える。その独裁体制で国内を締め付けるとともに、香港における民主主義を力で弾圧した中国は、今、台湾を脅かしている。リプセットの仮説は、中国の取引を拡大したい資本家経営者に都合が良かった。今は中国の政治の矛盾に芽をつむろう。しかし長いスパンでみれば、中国との経済交流拡大は中国の民主化につながると。しかし実際にはそうならなかった。

 共同富裕社会の実現
 中国政治の民主化
 非民主主義的政権は経済活動にとってどのような問題があるのか。行政の腐敗。社会のルールの透明性も問題もある。突然の方針の変更や刑罰・罰金などを科されるリスク。政治が不安定化するリスクなども考えられる。
 我々にとっては、この問題は中国リスクを高める。中国リスクを引き下げようとする動きは日本と中国のDecouplingを進めることとが二重写しに見える。
 中国上海で起きたロックダウン(2022年3月末~5月末)によるサプライチェーン途絶は、多くの日本企業が脱中国を模索するきっかけになった。2023年3月、日本の製薬会社幹部が、中国で反スパイ法容疑で拘束されたことも衝撃を与えた。すでに反スパイ法容疑で逮捕された日本人は14名に及ぶとされる。中国進出が危険と隣り合わせだということを、日本企業は認識すべきではないか。
 非民主主義国家、中国と国際社会はどう向き合うべきか。さまざまな中国リスクを警戒して、現在以上に中国と交流を深めることは避けようというのは、一つの方向性である。事実、対中国投資が広範囲に抑えられている(投資規模の縮小、新規投資の回避など)。この投資が清算・撤退に至れば、それは分離という段階だといえる。
 距離的に近い中国という巨大市場のメリットを考えて、なお中国投資を拡大するという選択を否定しているわけではない。しかしリスクの大きさとメリットとを、十分比較考量することが経営者には求められる。

 外国企業へのリスク増大 中国改正スパイ法、米当局が警告 Reuters 2023年7月1日
   米中デカプリングと日本株高 note 2023年6月29日
 「アステラス社員拘束」の恐怖 toyokeizai.net 2023年3月28日
 コマツ、中国子会社を再編 生産能力4割減 日刊工業新聞2023年3月14日 
 なぜ中国市場注力で成長遂げたコマツは今、急速に脱・中国を進めているのか 現代ビジネス 2022年10月13日
 ホンダ、中国抜きのサプライチェーン構築へ sankei.com 2022年8月24日
 マツダ、部品の中国依存脱却へ200社に協力要請 nikkei.com 2022年8月12日
 中国進出企業数減少傾向強まる 帝国データバンク 2022年7月22日

      autism   Baumol's cost disease   bulimia   bullshit job capital flight 
      China as a dystopia  choke point   coffee and urinary stone  concussion
  dementia   digital Leninism   hysteresis inclusive marketing 
  infection disease interstitial pneumonia  job type employment  
  market Leninism   menopause  osteoarthritis  peer pressure
      presbyopia  schizophrenia stationary state   subarachnoid hemorrhage 
  US-China decoupling Z-generation  


  

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Profile of Masaki Ina

稲正樹(いな まさき)  稲正樹 wikipedia 1949年生まれ 1973年北海道大学法学部卒 1977年北海道大学大学院法学研究科中退 1994年に北海道大学にて博士号授与。法学博士。 インド憲法の研究:アジア比較憲法論序説 北海道大学博士(法学)乙第4443号 1994...

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