末弘厳太郎と東亜研究所、政治経済研究所との関係に関する資料
末弘厳太郎(すえひろ いずたろう) 1888/11/30-1951/09/11
明治42 1912/07 東京帝大法科大学独法科を優等で卒業 銀時計授与
同大学院に進学
大正3 1914/07 東京帝大法科大学独法科助教授に就任
大正6 1917/11 第一大戦によりドイツ留学を断念し、シカゴなどへ留学した。
米国で社会学、判例重視を学んだ
大正9 1920/04 法学博士号取得
大正9 1920/09 帰国
大正10 1921/04 東京帝大法学部助教授
大正10 1921/10 「物権法初版序文」大正10年10月13日
末弘はドイツ民法学隆盛に対しこれを概念法学として批判した。東京帝大
法学部内に民法判例研究会を設立した。判例こそ生きた法律であるとして、
判例を学ばずに「生きた法律」知ることはできないとした。さらに法社会学
を日本に導入した。
大正10 -11 1921-1922 日本で初めて労働法制の講義を行った
大正11 1922/04 ケースメソッド教育始めた
大正11 1922/06 末弘厳太郎「役人のあたま」東京日々新聞大正11年6月下旬(青空文庫)
大正11 1922/07 末広厳太郎「噓の効用」改造 大正11年7月号(青空文庫)
大正12 1923/07 末広厳太郎「小知恵にとらわれた現代の法律学」『嘘の効用』改造社大正12年7月所収(青空文庫)
大正12 1923/09/01 関東大震災
大正13 1924/11 末弘厳太郎『農村法律問題』改造社 大正13年11月
農村を実態調査して、日本独自の法を探った。小作立法のための調査を行った。
大正15 1925/10 末弘厳太郎『労働法研究』改造社大正15年10月
昭和6 1931/08 末弘厳太郎「役人学三則」改造 昭和6年8月(青空文庫)
昭和11 1936/03 末弘厳太郎『法窓雑記』日本評論社 昭和11年3月
昭和12 1937/04 「新たに法学部に入学された諸君へ」法律時報 9巻4号(青空文庫)
昭和15 1940-1944 東亞研究所第六調査委員会学術委員会第一部(中国における農村慣行調査)を第六調査委員会委員長が末弘厳太郎。満鉄側の調査班(実態調査担当 杉之原舜一,旗田巍、幼方直行など。満鉄調査部長が伊藤武雄)と協働して、中国農村慣行調査を実施。この調査結果は『中国農村慣行調査』として第二次大戦後、岩波書店より刊行された。( 平野義太郎ほか「座談会 政治経済研究所創立のころ」政経研究 21 1976/11 7)
馬場健一「「科学的」調査と研究者の政治責任ー華北農村慣行調査とその評価をめぐって」法社会学 57 2002 170-190, 261は、国内で困難であった調査を海外で集団的に行おうとするものであったが、侵略戦争もしくは植民地支配に加担する行為ではなかったかという疑念は捨てきれないとし、平野義太郎を始め末弘の門下生による中国慣行調査は「学術の進歩のため」「できるだけ国策を拒否する消極的抵抗」であったとする評価の甘さを指摘している。末弘が行ったことは、法社会学の成果を植民地支配に役立てることを目指していなかったかということ、末弘はそれを裏付ける発言もしている。馬場がまとめているように、この問題は法社会学を含め社会科学の政策に対する中立性をどう考えるかに帰結する。末弘は、政策的帰結に無答責という立場で、その姿勢は戦後にも一貫していると馬場は指摘している。
昭和17 1942/03/09-1945/03/08 東京帝大法学部長
昭和20 1945/09/01 8/20に東亜研究所に所長として復帰した大蔵公望はこの日、末弘厳太郎や金森徳次郎ら7名を集め、新国策研究機関樹立に向けた協議を行った。その後、大蔵は軍部出身の理事2人に辞任を迫り、金森と末弘を後任理事として就任させた(渡辺新「政治経済研究所設立史」政経研究98 2012 p.2)。
昭和20 1945/10/27 労働法制審議委員会~11/21まで11/24に答申
1945/10/31 労働組合法に関する意見書(末弘意見書)を提出
GHQのもと労働三法制定に関与したとされる。関与の詳細については調査は今後。労働組合法1945 労働関係調整法1946 労働基準法1947 改正労働組合法1949。
労働基準法に関しては1946年7月に労務法制審議会が開催され、1946年12月に答申案を出している。その時の小委員会委員長は末弘厳太郎である。つまり労働組合法のあと、労働基準法の制定に末弘は関与したことになる。そして1946年12月には、中央労働委員会会長として活動をしている(会長就任時期は調査中)。
つまり東亞研究所の解散決議(1946/03/26)政治経済研究所開所(1946/11/01)が併進しているのだが、政治経済研究所の業務が併進しているが、他方で労働法制の専門家として末弘の活動が、1946年中も中断することなく進んでいたこと、末弘が、対外的活動が多い、多くの顔を持つ公人であったことを理解すべきではないか。
昭和20 1945/12/22 労働組合法制定公布 労働三権(団結権、団体交渉権、ストライキ権)の保障
12月、研究所従業員の民主化運動の中で大蔵は辞任し、金森が所長となったが、組合は金森にも辞任要求をつきつけた。金森も辞意を固めるなか、末弘が後任となる路線がしかれた。 末弘は2月半ばに、組合を代表する近藤康男に新研究所設立提案を提示、組合は2月19日の臨時従業員組合大会で末弘の提案を受け入れた(渡辺新 前掲論文 p.3)。
昭和21 1946/01/04 GHQ公職追放令
昭和21 1946/02/17 金融緊急措置令(預金封鎖)
昭和21 1946/03/01 労働組合法施行
昭和21 1946/03/01 労働委員会制度発足
昭和21 1946/03/08 東京帝国大学法学部長(1942/03/09-1945/03/08)退職 (東京大学法学部HPによる)
昭和21 1946/03/09 社会党左派山川均の呼びかけに答えて民主人民戦線統一世話人会に名前あり。翌日03/10 世話人会開かれ「民主人民戦線」として活動。
昭和21 1946/03/14 末弘は「設立趣意書」を作成した(ガリ版刷り)。趣意書は、官庁における調査の断片性・非科学性・非継続性、大学における実用性軽視、閉鎖性を批判、他面、民間における研究機関が資金難であることを指摘し「この際政府が巨額の資金を支出して民間に財団法人を設立し、これをして政治経済に関する組織的研究調査をなさしめ」(現代カナに書き換え)るとしている。他方、日付のない鉛筆書きの趣意書も残されている。こちらは、我国の政治を真に民主主義的ならしめるためには各政党が「独自の政策を樹てる能力をもつこと」が重要として、この目的を達成するためには「国会に充実した図書館を附設することが何よりも肝要」であり、「之と表裏して平素より政治経済に関する諸般の資料を科学的に研究調査する」研究機関が必要で「国会図書館で直接この種の仕事ができるような仕組みになることが望ましい」が、速急にその実現を期しがたいとして、民間の財団法人として政治経済研究所設置を「実際上便宜」だとしている。その役割は「優秀な研究者を常備して、諸般の研究をなさしめ」平素から官庁その他官民諸機研究機関と連絡して資料を嵬集整備しておくとともに必要に応じ調査上の必要等の援助を受けるべく連絡関係を平素から作っておき「政党並びに官庁の要求に応じ」調査の手引き又は調査研究を引き受ける等の仕事をする(渡辺新 前掲論文pp.4-5)としている。
昭和21 1946/03/26 東亞研理事会 解散を決定 金森徳次郎 末弘厳太郎 清算人は清瀬三郎氏 東亞研究所の財産を将来設立せらるべき財団法人政治経済研究所に帰属せしむること(平野義太郎ほか「座談会 政治経済研究所創立のころ」政経研究 21 1976/11 6)
昭和21 1946/04/10 戦後最初の総選挙
昭和21 1946/05/07 教職員の除去、就職禁止及び役職等の件
昭和21 1946/05 末弘厳太郎「労働組合法解説」日本評論社 昭和21年5月
昭和21 1946/06/7 から10/21まで17回の政治経済研究所設立に向けた打ち合わせ会 が行われた(平野義太郎ほか 前掲記事 6)
昭和21 1946/6/28 東研清算人 末弘厳太郎 受取人 内閣総理大臣吉田茂「旧東亞研究所建物使用認可申請ノ件」(渡辺新 前掲論文p.6)
昭和21 1946/7/10 設立打ち合わせ会に内閣審議室から2人の参事が出席 (平野義太郎ほか前掲記事 12-13)
昭和21 1946/08/14 内閣総理大臣から設立許可指令。政治経済研究所設立登記 ( 理事長:末弘厳太郎、専務理事:渡部一高、常務理事:大内兵衛、・平野義太郎・近藤康男、理事:橋井真・森戸辰男・小林義雄、監事:金森徳次郎・澁澤敬三(渡辺新 前掲論文pp.6-7)
なお第二次大戦前の議会における議会図書館の議論については佐藤晋一「国立国会図書館法・議員法制局法・内閣法制局法ー『立法」の論理(1)」茨城大学教育学部紀要45号 1996/03 313-316に紹介されている(なお佐藤の研究は、国会図書館の「三十年史」資料編を使っていて、原文に当たった悉皆調査でない可能性が高い)。第二次大戦前についても、帝国議会内で議会図書館について議論が重ねられていたことが重要で議会図書館の設置は戦後、初めて出た論点でないことを牢記すべき。
昭和21 1946/07/31 大内兵衛ほか3名が「議会図書館設置ノ請願」を衆議院に提出。紹介は森戸辰男衆議院議員。佐藤晋一、同前、p.316
昭和21 1946/08/01 大内兵衛ほか3名が「議会図書館ノ設置ニ関スル件」を貴族院に提出。紹介者は姉崎正治貴族院議員。佐藤晋一、同前、p.316
昭和21 1946/09/13 90回帝国議会 貴族院 請願委員会6号 子爵北小路三郎君の発言 議会図書館に関する請願 東京帝国大学教授 大内兵衛、日本放送協会会長 高野岩三郎、子爵 澁澤敬三、東京帝国大学教授 末弘厳太郎の4名による請願。このとき請願委員会を可決。請願の日付は07/31。
議事録により、末弘厳太郎が請願に名前を連ねていたことに注目したい。
子爵の発言から請願の内容をみると、米国の「コングレス・ライブラリー」に倣うとしているが、機能としての『レファレンスサービス』への言及は見られない。また利用者は議員関係者を中心に、研究者までとして一般国民までは想定していない点などが気になる。:末弘厳太郎の国会図書館への興味は設立趣意書からこの4人連名での貴族院への請願まで連続している。請願の本文がわからないので、正確にはいえないが、設立趣旨書で述べていた、国会図書館における科学的研究調査が、貴族院への請願では落ちているのかどうか。この点は、請願の本文を探し出して確認する必要がある(福光)。
昭和21 1946/09/17 90回帝国議会 貴族院 本会議 ここで議会図書館に関する請願について姉崎正治の賛成演説があり、採択されている。この演説は議会図書館のlegislation reference review機能にも言及、ユニオンカタログ作成の意義にも言及して、国立図書館の機能を併せ持つ議会図書館という請願に賛成と述べている。 この姉崎演説では、議会図書館のレファレンス機能に再び焦点が当たっている。
昭和21 1946/09/27 労働関係調整法公布
昭和21 1946/10/10 労働関係調整法施行
昭和21 1946/09/30 法学部を退官。末弘は学内審査で教職不適格の判定を受けてこの日、東京帝国大学法学部を退官。出口雄一「戦時・戦後初期の日本の法学についての覚書(2・完)」『桐蔭法学』20(1) 2013/12 33-88 p.40 典拠は東京大学百年史。
昭和21 1946/10/9 90回帝国議会 貴族院 本会議 「議会図書館の設立と国立図書館の拡充に関する建議案」貴族院議員姉崎正治10/08発議 総員起立可決
昭和21 1946/10/11 90回帝国議会 衆議院 本会議 「国会図書館設置に関する決議案」10/09 請願者の4人の一人として末弘厳太郎に言及 東亞研究所などの資料の継承機関とも説明 総員起立可決
昭和21 1946/11/01 政治経済研究所開所
昭和21 1946/11/03 日本国憲法公布(10/07 貴族院・衆議院で修正案が可決。10/29枢密院で可決)
昭和21 1946/11/ 04 国会図書館構想にむけて新規所員14名採用(同前 p.9)
昭和26 1946/11/04 GHQ民生局国会課長Justin Willamsの「国会法に関する意見」が提出された。レファレンス機能を持つ国会図書館を設けることが入った。:Williamsの意見書をどうみるか。詳細は後掲の1947年10月3日衆議院図書館運営委員会議事録を参照(福光)。
このWilliamsの意見書の内容は、西沢哲四郎文書248「国会法立案過程におけるGHQとの関係」1954/11/10 p.7以下 esp.p10(国立国会図書館「国会法の制定」中に掲載)
昭和21 1946/12/23 公務員労働組合協議会争議の件 内閣総理大臣宛発議 この発議者名は中央労働委員会会長末弘厳太郎になっている。すなわち1946年12月時点で末弘が中央労働委員会会長の職務で繁忙になっていることが想像できる(中央労働委員会会長に就任した時点は調査中)。なおこの発議書は 昭和22 1947/01/06 内閣総理大臣から全国官公労職員労働組合協議会宛て回答書の添付文書として再確認できる。
常務理事の平野義太郎は調査部長兼務 大内兵衛さんとか森戸さんはあまり顔を出さなかった。研究所は末弘さん、平野さん、近藤さんが中心だった。昭和21-22の委託調査は 経済安定本部、農林省が中心 早くから実態調査を行った点に意義(平野義太郎ほか 前掲記事 14 16-17)
平野は末弘について「政経になってからも、やっておられる間は調査が好きでしたし重視しました」とし中国での慣行調査を証拠にあげたあと、焼津の漁港に賃金形態を調査に行き、焼津から帰って来られて亡くなられるという因縁がある位に、死ぬまで調査をやっていた、というところもある方でした、としている。また平野は別の箇所で、末弘は「直接自分が興味を持っていて調査に行きました」としている(平野義太郎ほか 前掲記事 8,16)。この焼津の賃金実態の調査―末弘の死という話は、後掲の『断腸前後』という末弘の遺著からは、確認できない。この遺著で判明することは、1950年9月に直腸癌で手術を受けたあと、末弘がまずは病院で、その後は湯河原、熱海と療養生活を続けていたことである。しかし1951年に入り、法律時報4月号に寄稿を寄せ、それが注目されて、5月に衆議院法務委員会公聴会で公述人として弁をふるっている。他方、政治経済研究所との関係は、1951年4月には、研究所を解散する判断を下したあと、後任の理事を決めて、腹心の渡部一高とともに、1951年5月に研究所を離れている。末弘は1951年9月に自宅で亡くなるわけだが、1950年9月の手術後、1951年にはいっても体調は不安定だった。1951年夏に、調査で焼津に行くことは考えにくい。平野の発言「焼津の漁港に賃金形態を調査に行き、焼津から帰って来られて亡くなられる」は、事実を確認できない上に1951年7月時点で体調が悪く、9月で自宅で亡くなったことからすると、無理があるが、今後も調べたい。
昭和22 1947/1 末弘厳太郎「本研究所の意図するもの」政経資料月報Vol.1.1 1-2研究所の趣旨として「わが国の政治行政一般に科学性を与えることに寄与したい」として、手広く資料を嵬収して整理しておくので、政党、官庁方面の方々にも利用してもらいたい。としている。また民間の研究所などの研究調査の資料を集めて整理するので、それをまた逆に利用してもらいたい、としている。(政経資料月報ガリ版刷りでだされている。紙質も悪い。政経研究21 1976 3-4として再版) :この文章は『政経資料月報』という雑誌の初号巻頭におかれている。したがって研究所の機能を全体を述べたというよりは、研究所がこの「資料月報」を通じて行おうとしたことの説明なのかもしれない。まず、政治経済研究所自身の調査機能とかレファレンス機能とかを説明から落として資料提供の話だけしている点は気になる。ただその点をより積極的に考えると、政治経済研究所が生み出す研究成果もまた、集められる資料の一部ということではないだろうか。研究所自身が官民多くの資料に依存して成果を生み出す一方、それらの嵬集整理して提供する。そうした姿勢が政治行政一般に科学性をもたらすことにつながる、そうした考え方ではないか。この考え方はまさに国会図書館調査局の考え方に近いようにも考えられる。つまり一民間企業の在り方ではなく、国会図書館の機能を自身が担おうとしていたようにも読めるのである。他方、この初号には、昭和22 1947/01/15 現在 調査部メムバー 平野義太郎を調査部長とする平野を含め25名の調査部員(嘱託含む)全員の氏名が掲げられている(政経資料月報Vol.1.1 6)
昭和22 1947/03/19 国会法、議会を通過
1947/03/25 国会図書館法案提出
1947/03/30 国会図書館法可決
(この国会図書館法の内容は単純に国会に開設する図書館に関する法律であり、米国の議会図書館におけるような国内出版物の収集であるとか、議会に対する調査サービスの提供といった視点を欠いた内容であった。しかし逆にいえば、レファレンス機能をどうするかは、このあとの議論に依存していた。といえたのではないか。)
昭和22 1947/04/07 労働基準法施行
1947/09/07 大部分が施行
1947/11/01 残りの部分が施行
昭和22 1947/04/20 最初の参議院選挙
昭和22 1947/04/30 国会法の公布
昭和22 1947/04/30 国会図書館法の公布施行
昭和22 1947/05/03 日本国憲法・国会法 施行
昭和22 1947/08/08 衆院通信委員会5号 1947/08/08 熊沢政府委員の発言中に中労委委員長末弘博士についての言及あり
昭和22 1947/09/25 参院議運小委員会 1947/09/25 国会の調査機能のあり方が議論されている。国会図書館の調査機能、法制部の機能、常任委員会の調査機能のあり方など。
昭和22 1947/10/03 衆院図書館運営委員会4号 1947/10/3 中村嘉壽委員長の発言から
1947/08/02 打ち合わせ会で政治経済研究所及び国会図書館について渡邊君のお話をうかがいました、とある。この渡邊君は渡部一高氏のことかもしれない。
図書の購入にかんして、まず中西寅雄の蔵書の購入が好意的に紹介されたあと、政治経済研究所の図書1700冊について、1冊150円という値付け、内容が否定的に紹介されて留保しているとする。金額は25万5000円である。ここで判明するのは、政治経済研究所が蔵書の売却を国会図書館に打診していたことである。
さらに09/30に末弘厳太郎氏と中村委員長は面会し、末弘氏から「外から見ていると、国会図書館の運営が一面進捗しないようで、非常に憂慮すべきことである」というふうな発言があったと、中村氏は不快感を示している。また別の箇所で同日、末弘氏は「いかにも国会図書館は、政治、経済研究所がつくったようなことを考えておられる」が「これは間違いだと思う」と述べている。衆院の中村委員長と末弘氏がソリが合わなかったことは間違いないだろう。
その一方で中村氏が報道記事を読ませて記録したことで、1947年に政治経済研究所が国会図書館開設に向けて、活発に動いていたことが分かる。8月22日の東京民報に依れば、8月18日と20日の両日、政治経済研究所とその他の民間金融機関22機関などの代表が、衆院・参院議長と両図書館運営委員長に対し、官僚任せにせず議員自ら国会図書館の準備を進めることを、申し入れた。また9月17日付けの文化新聞によれば、大内兵衛、姉崎正治、末弘厳太郎氏は、国会事務当局と連絡を保ちつつ「国会図書館懇談会」を結成し、国会図書館について、アメリカのコングレッショナルライブラリーを範として、レファレンスライブラリーであると同時にナショナルライブラリーとすることを提言している。
(以上のようにこの1947年10月3日の議事録は極めて情報が多い)
昭和22 1947/10/16 参院労働委員会14号 1947/10/16 末弘氏は中央労働委員会会長代理の名義で証人として出席して、労働組合法や労働委員会の問題点などについて詳しく述べ、議員からの質疑に答えている。
昭和22 1947/11/08 政治経済研究所1周年記念講演「労働組合の現状と将来」。
昭和22 1947/12/06 参院労働委員会25号 ここで末弘氏は中央労働委員会会長として紹介され、10/4から4回にわたって行われた調査委員会において「労働委員会より見たる労資問題」について証言をおこなったとされている。
昭和22 1947/12/08 日本法社会学会創立総会(於:東京大学)
昭和22 1947/12/20 中央労働委員会日本教職院組合労働争議調停委員会委員長末弘厳太郎名で調停案を提出している。(労働組合法や労資問題への国会審議への対応や中央労働委員会での職務を考慮すると、末弘はこの時期多忙であった。)
昭和23 1948/01/06 Clapp & Brown 国立国会図書館法に関する勧告 が提出された。
末弘厳太郎「労働組合の現状と将来」『政経資料月報』Vol.ⅡNo.1 1948/01 1-6(1947年11月8日の政治経済研究所1周年記念講演を記者が起こしたモノ。文責記者。なおp.6には、末弘厳太郎による労働法ゼミナールを土曜日午後1時半開講で、2月7日から28日まで開講の告知がある。4回で200円という会費設定。場所は研究所の会議室である。)
昭和23 1948/02/04 国立国会図書館法の成立 2/9 同施行(なお1948/2/9に1947年制定の国会図書館法が廃止されている):立法考査局機能をもつ国立国会図書館が目指されることになったので、末弘が政治経済研究所の設立趣意書で述べた点は、国会図書館の機能として実現されることになった。末弘が「国会図書館で直接この種の仕事ができるような仕組みになることが望ましい」(1946/03/14の趣意書)とした点が、法律上はそのとおりに実現したことになる。
この時点で、国会のブランチになるという政治経済研究所の設立目的が崩れたことを冷静に判断れば、政治経済研究所を解散して、所属財産・人員の吸収を願い出る選択肢が末弘や理事会、つまり経営側には、あったと私には思える。1947年から48年にかけての理事会は関連した議論をしなかったのだろうか。当時、研究所は日々の業務に忙しかったとは思うが、理事長、理事会としては、研究所の国会への吸収を願いでる選択肢があったように思える。
しかし末弘自身の1948年年頭の立場は、元東京帝国大学法学部教授、元同法学部長であり、現職は中央労働委員会会長、船員中央委員会会長、そして政治経済研究所理事長である。多くの公職にある末弘個人は、国会内のポストに関心はなかったといえよう。また研究所自身も、取りあえずは官庁からの委託調査で回転しているように見えたために、政治経済研究所の当初の目的が失われたにもかかわらず、末弘は理事長として組織存続の危機感をこの時点ではもたなかったのではないか。
また国会内では、法制部を法制局として拡充整備する考えが表面化、調査立法考査局の立ち上げは、この議論と競合することになった。最初の1948年度(昭和23年度)で認められた国会図書館調査局の規模は小さなものになった。
国会サイドで、法制部(法制局)、常任委員会調査室、国会図書館調査立法考査局立ち上げに際して、どのように人材の確保を行ったのか、具体的関心としては、国策調査機関にいた人で国会に異動した人がどの程度いたか、満鉄調査部、東亜研究所、そして政治経済研究所にいた人たちから、戦後の国会の調査機能に貢献した人がどのように存在したかどうか、その後その人たちがどのように移動したかは、今後調査したい(福光)。
1948/02/25 政治経済研究所監事の金森徳次郎が国立国会図書館長に就任
昭和23 1948/03/20 衆院図書館運営委員会7号 金森館長は予算について、一般レファレンス局、立法レファレンス局を作るのでそのための人員が必要である。レファレンス局では、国会、各省及び一般の人に利用していただく、法律資料室という今までにない便利ナものをつくりあげる、すぐに役立つような調査職員をそろえるために、調査の部局にたくさんの人を用いるつもり、といった抱負を述べた。主計局次長も、行政整理の関係もあり、政府職員はほとんど増加しない方針であるが、例外としてある程度、考えなければならない、と答弁している。
昭和23 1948/03/25 衆院図書館運営委員会8号 中村嘉壽委員長はまず参議院が推薦する中井正一は図書館での経験が浅く副館長として不適任とした。その過程で国会図書館の約700名の人員要求を財政当局が半分程度に査定しようという御計画があると財政当局を非難。これに対して政府委員は、できるだけ配慮をいたしたい、いろいろの権衡その他を考え、また他の政府所管事務との釣り合いというようなことも考えまして、妥当なところに決定いたすよす折衝申し上げていると答弁。
昭和23 1948/03/27 衆院図書館運営委員会9号 中村委員長が冒頭。大蔵当局としては、国会では「別に法制局という厖大なものができるので、その方に人を要し予算を要するのであるから、国会図書館の方はこれを半分ぐらいにするというお考えである」しかし、法制局の法律はまだできていないし、アメリカでは法制局にあたるものは小さなスタッフでやっている、との発言がある。続けて衆議院の法制部長は、問題は、法制部(それを拡充した法制局)と国会図書館の立法レファンレンス局の仕事の限界をどうするかだとしている。これに対して委員の中からも二重化は好ましくないとの発言があり、法制局法案が準備中であることもだされた。参議院との合同委員会、議運との会合などが提起されて終わっている。
昭和23 1948/04/05 衆院図書館運営委員会10号 ここで国立国会図書館の昭和23年度予算案と査定結果の概要が出ている。人員は604名を要求した(特急1名 1級30名 2級140名 3級230名 雇112名 傭人92名)。しかし認められたのは半数の316名、調査局については1級17名を要求したが認められたのは5名(局長、次長、専門調査員3名)だった。金額では約1億円の要求に対して3958万6000円,人件費は3600万の要求にたいして認められたのは2000万にとどまった。抱負の大きさとは逆に国会図書館そして、国会図書館調査局は小さなスタートを切ることになった。
昭和23 1948/06/07 衆参図書館運営委員会合同審査会1号ここでこの年の予算が確認されている。総額で7410万3256円。予算定員は段階的に増えるとのことで1948年6月までは181名、7月-12月は230名、1949年1月以降は362名。この時点では採用者は館長1、副館長1、専門調査員1、局部長7、秘書9、調査員12、参事12、主事46、主事補94、傭人32。
1948/06/05 国立国会図書館の開館
昭和23 1948 末弘厳太郎『労働法のはなし』政治経済研究所編 一洋社 昭和23年(都立中央図書館デジタル資料)
昭和23 1948/06/30 参院 運輸及び交通委員会11号 船員中央委員会会長の末弘厳太郎から参院議長に充てて、船員法条文の適用範囲について建議書が出されたことが分かる。
昭和23 1948/09/25;1948/10/02;1948/10/16 日本評論社での座談会での司会 法律時報に掲載され、のちに日本評論社編集部編「日本の法学:回顧と展望」1950として出版された、連続座談会を司会。出口雄一「戦時・戦後初期の日本の法学についての覚書(2・完)」『桐蔭法学』20(1) 2013/12 33-88 注92 pp.77-78による
昭和23 1948/11/18 第3回国会衆院人事委員会公聴会公述人 中央労働委員会の末弘厳太郎として。国家公務員法の一部を改正する法律案の審議。
昭和23 1948/12/11 日本法社会学会第2回大会(於:東京大学)
昭和24 1949 末弘厳太郎「政経叢書 労組問答」政治経済研究所 昭和24年1月(国立国会図書館蔵書)
昭和22-23 1947-1948 政治経済研究所について渡辺論文によれば、1947年度決算書が残っていない。予算上は国会、経済安定本部、農林省からの補助金、部屋賃貸料が収入の中心。1948年度については予算書・決算書がのこっており、 経済安定本部、国会図書館、農林省からの「補助金」、部屋賃貸料、維持会員収入に歳入を依存していたことが分かるとのこと(渡辺新 前掲論文pp.12-14)。:官庁から「補助金」という表記の正しさが気になる。渡辺の表記が正しいかは、官庁側の歳出から確認する必要がある。たとえば渡辺論文では1948年度決算で(国立)国会図書館名目の補助金50万円を受け入れている(同前 表8 13)。1948年度という国会図書館立ち上げ時に、政治経済研究所に対し(国立)国会図書館が「補助金」をだしたすれば大問題である。調査の余地がある。後述するように、政治経済所から書籍を購入したとか、政治経済研究所の書籍購入を検討中などの記述は、国会会議録にある。また経済安定本部や農林省から委託調査をしていた事実はある。渡辺論文の「補助金」という記載は何を意味するのか。同様に経済安定本部や農林省からの「補助金」も受託調査費と記載すべきものではないかと疑われる。そもそも「補助金」が支出名目もなく軽々に出されるはずがない。渡辺論文における「補助金」という表記は仮に帳簿上の記載がそうでも事実としては間違いで、注記なく「補助金」を受け入れたかに表記したことは大変重大な問題なのではないか。ただ他方で「補助金」と帳簿上記載されていたとすれば、その意味はどこにあるのだろうか。いずれにせよ元帳簿に当たって表記を確認する必要がある。(福光)
昭和24 1949/04/09 参院法務委員会 中央労働委員会委員長末弘厳太郎氏より 労働者の債権の法的措置に関する陳情があったことが分かる。
昭和24 1949 労働組合法改正
昭和24 1949/06/04 日本法社会学会第3回大会 於:立命館大学
昭和24 1949/11/17 衆院図書館運営委員会2号 ここでの金森館長の答弁から、この時点での国会図書館の職員数は館長以下491人。うち立法調査に充てる職員数は57人。
昭和24 1949/11/19 衆院図書館運営委員会3号 ここでの金森館長の答弁から。昨年つまり1948年末に政治経済研究所から漢籍を70万円で購入したとの数値がある。:このことから1948年度に政治経済研究所が国会図書館に対し70万で漢籍を売却したことが判明する。
昭和24 1949/12/19 衆院労働委員会人事委員会運輸委員会連合審査会2号公共企業体労働関係法の規定に基づき国会の議決を求めるの件で参考人として出席。肩書は公共企業体仲裁委員会委員長。
昭和24 1949/12/22 参院運輸・労働連合委員会1号 公共企業体労働関係法の規定に基づき国会の議決を求めるの件で証人として出席。肩書は公共企業体仲裁委員長。
昭和25 1950 末弘厳太郎 調査のため訪米 1950/01/09-03/09
昭和25 1950/01 「日本労働組合運動史」日本労働組合運動史刊行会 昭和25年1月
昭和25 1950/02/08 衆院労働委員会5号 この会議録の最後に参照記事として公共企業体仲裁委員会の裁定1949/12/28 が掲載されており、仲裁委員会委員長末弘厳太郎とある。
昭和25 1950/04/13 衆院図書館運営委員会4号 国会図書館の調査局の業務が紹介されている。1950年初めから、調査業務にあたるものだけ三宅坂に建てた建物、国会に近い所に移ったこと。専門調査員以下56名であり。3つの部屋に分かれて対応していることなど。
1950年度に至り、文部省からの補助金が入ったものの、銀行からの借入で不足を補うに至り、1951年の政経ビル売却に至った。しかしビルの売却は、賃貸収入の喪失となり、政治経済研究所は、再編が不可避になった(渡辺新 前掲論文p.14)。
昭和25 1950/09 直腸癌で手術受ける 後掲『断腸前後』によればこのあと、12/20まで病院。12/20に退院。その後、湯河原、さらに熱海にて休養を続けている。熱海から東京に戻ったのは51/5/11。研究所との連絡は、渡部一高氏が担っており、渡部氏は複数(12/8は安藤敏夫氏と;51/1/3は谷澄美子氏と)、あるいは単独で(2/5;2/16)末弘氏を訪ねている。4/6渡部氏と「研究所解散の打ち合わせる」とあり、末弘氏は4/6には渡部氏とともに研究所の解散の判断に至っていたと、考えられる。
昭和26 1951/03 法社会学会「法社会学」第1号に「傍観者の言葉」を寄稿。―科学としての法社会学そのものに保守的も進歩的もない と書いた。出口雄一「戦時・戦後初期の日本の法学についての覚書(2・完)」『桐蔭法学』20(1) 2013/12 33-88 p.72
昭和26 1951/04・05 末弘厳太郎「法学とは何か 特に入門者のために」法律時報23巻4・5号(青空文庫)
昭和26 1951/04・05 末弘厳太郎「法律の学び方・教え方」法律時報1951年4月号5月号
1951年4月13日の政治経済研究所理事会で末弘は、専務理事の小林義雄が進めていた国鉄労組への売却を故意に安値の売却になるとして反対を表明、明治大学との交渉を進めることを促した。研究所の今後については「自分は解散希望」と発言している(渡辺新 前掲論文p.15)。
後掲『断腸前後』に依れば 4/25に研究所から秦、安藤両君それから小林氏別々に来る。とある。
1951年4月26日の理事会で、末弘はビル売却後、解散せず仕事もする案を取るとしつつ、また同じことにならないように、具体的再建案の策定を、小林義雄、渡部一高両理事、安藤敏夫、秦玄龍総務部長の4人に指名した。(同前 pp.15-17)
昭和26 1951/05/22 衆院法務委員会29号 ここで猪俣委員より 法律時報4月号5月号に掲載の末弘論文が裁判所侮辱制裁法案を論じているので公述人として呼ぶことを求める発言
昭和26 1951/05/23 衆院法務委員会30号 委員長より追加選任公述人の一人に前中央労働委員会会長末弘厳太郎君を指名する発言
昭和26 1951/05/24 衆院法務委員会公聴会1号 裁判所侮辱制裁法案に関する公聴会に公述人として出席。注目されるのは肩書なく末弘厳太郎として紹介されていることと、発言の多さ。また冒頭、病気が完全に癒えていないことを述べている点。なおこれが国会での発言の最後になった。
1951年5月24日の政治経済研究所理事会で新任の理事候補として、伊藤武雄、伊藤道雄、岡崎嘉平太の3人が紹介され、7月5日の理事会で、末弘厳太郎、渡部一高、平野義太郎の3人の退任が承認され、末弘は政治経済研究所を去っている(同前 p.17)。
後掲の『断腸前後』によれば05/23に公聴会への準備を行ったことが分かるが05/24の理事会に出席した記録はない。06/09に「研究所による」と記されたのが研究所についての言及の最後。06/11に秦玄龍氏に書面出す。夕方渡辺(渡部の誤り)一高氏来訪と書かれたのが、研究所人士との交流記録の最後である。『断腸前後』から分かることは、研究所との関係において渡部一高氏が仲介を担っていたこと、既述にように4/6に渡部氏とともに「解散」の判断をしていたこと、平野義太郎氏とは、研究所でも研究所の外でも交流が全くないことである。
昭和26 1951/06 政治経済研究所は組織縮小 ここで末弘厳太郎は、平野義太郎、渡部一高などとともに退職 新理事会 調査部長は安藤敏夫 国際班に中林賢二郎(平野義太郎ほか 前掲記事 17)
昭和26 1951/09/11 自宅で亡くなる
昭和26 1951/09/15 政治経済研究所「故末弘厳太郎先生を憶う」『政経調査月報』No.27 1951/09 表紙見返し
「末弘先生は、わが政治経済研究所の創立以来、四年有半にわたって、所長として在任された。この間、中労委会長としてきわめて御繁忙な日常を過ごされつつも、絶えず並々ならぬ御藎力をもって研究所の維持に当たられた。並びなき該博な知識と明敏な判断力をもってわれわれに與えられた多くの指示が、研究所の在り方を定めて今日に至ったが、われわれがその最大の教訓として肝銘していることは、研究に当っては科学的な方法論をもって事実を飽くまでも客観的に捉えてこれを正しく分析し総合するという態度を堅持せよ、ということであった。先生は、しばしば、この態度を堅持するところに独立した民間研究機関としての存在の意義があることを強調され、特定の主観的意図の下に事実を歪曲したり、盾の一面をえてそれを一般化したりする態度を極度に排斥された。」:この科学的方法論、客観性の主張は、1976年に市川弘勝が実態調査重視こそ、末弘が建てた設立目的だという(後掲資料欄に引用)のと、かなり異なっている。それぞれが末弘の一面を指摘している可能性があるが、あるいはそれぞれが、末弘を利用して自説を述べている可能性もある。ただしこの文章の末弘の方が、末弘の学問観に近いと私は考える。つまり客観的なものが主体を離れて存在しており、それを明らかにするのが学問である。末弘はまさにそう考えていたからこそ、国策研究機関調査をすることにためらいはなく、自身が植民地政策に加担していたとも考えなかったのではないか。(福光)。
昭和26 1951/11 「日本労働組合運動史」で毎日出版文化賞
昭和27 1952/01 末弘厳太郎『断腸前後』一粒社 昭和27年1月 本書により昭和25年1月9日から3月9日までの訪米の様子など、1950年9月11日の手術に至る間の様子が分かる。その後の思いも書かれているほか、日記は1951年7月10日まで書かれていて、手術後も講演などの社会的活動を続けていたことが分かる。手術からちょうど1年のところでなくなったことになる。
資料
末弘厳太郎 Wikipedia
政治経済研究所 沿革(公益財団法人政治経済研究所HP)
コラム30 末弘厳太郎先生のことば(東京大学大学院法学研究科・法学部)
国会会議録中の末弘厳太郎の発言は国会会議録を「末弘厳太郎」で検索することで容易に原文にあたれる。
末弘厳太郎「本研究所の意図するもの」政経資料月報Vol.1.1 1-2
末弘厳太郎「労働組合の現状と将来」『政経資料月報』Vol.ⅡNo.1 1948/01 1-6(1947年11月8日の政治経済研究所1周年記念講演を記者が起こしたモノ。文責記者。なおp.6には、末弘厳太郎による労働法ゼミナールを土曜日午後1時半開講で、2月7日から28日まで開講の告知がある。4回で200円という会費設定。場所は研究所の会議室である。)
住谷悦治「新刊紹介 末弘厳太郎氏著『日本労働組合運動史』」同志社大学経済学論叢 2(4) 1951/01 104-107
平野義太郎「社会科学者 末弘厳太郎」法律時報 23(11) 1951/11 2-12, 38
市川弘勝「30周年をむかえて」政経研究 21 1976/11 1-2 :この30周年記念号序文において、理事長の市川は、占領軍当局から解散を命ぜられる公算が大きかったので、その前に自主的に民主的な民間研究機関に改組しようとする動き」として「末広先生などが中心になって、民間研究所への改組の企画が進められた。しかし「結局、大規模な総合研究所構想は実現しなかった」としている。末弘については、「法律分野においても早くから実態調査を重視されていた方」として、「政治経済研究所の設立にあたっても、実態調査を重視され、実態調査を基礎として理論の構築、研究成果の取りまとめを強調されていました」と結んでいる。また焼津の漁業調査にみずから参加されたことは、死期を早めたとさえ言われたほどだと言葉を添えている。さらに研究所の歴史を振り返る箇所では、「諸官庁の委託調査を軸として、主として実態調査を中心として調査研究活動おこなって」きたことをもって、「設立目的に向って努力」してきたことの裏付けとしている。しかしこの市川の記述には、末弘の発言や記述は引用されておらず、末弘の意図に忠実かについては深い疑問が残る。市川はそもそも政治経済研究所発足時のメムバーではなく、末弘が研究所を去った時の幹部でもない。つまり市川は直接、末弘の形骸を知らず面識もない。市川が述べている点は、平野義太郎などの座談会での発言が根拠。市川はここで自身の政治研究所に対する認識や、実態調査を重視した研究所の在り方という自身の考えを、述べたのではないだろうか。とくに気になるのは政治経済研究所設立にあたって「実態調査を基礎として理論の構築、研究成果の取りまとめを強調」したという核の部分である。ここは正直、典拠が欲しい部分。他方で「法律分野においても早くから実態調査を重視されていた方」は同意できる。「実態」重視を否定するわけではないが、研究所が実態調査を含めてさまざま情報を集積する場所になるということを末弘は目指していたのであって、研究所が「実態調査を基礎として理論の構築、研究成果の取りまとめ」をするというのは、末弘が目指したものに比べて狭いように感じられる。(福光)。
末弘厳太郎「本研究所の意図するもの」政経研究 21 1976/11 3-4
平野義太郎ほか「座談会 政治経済研究所創立のころ」政経研究 21 1976/11 5-23
「政治経済研究所創立までの主な会議録」政経研究 21 1976/11 24-31
「委託調査の実績(昭和21-25年度)」政経研究 21 1976/11 38-39
「主要公刊図書」政経研究 21 1976/11 50-52
末弘著作集(全5巻)日本評論社 2版 1980
小口彦太「中国法研究における末弘博士の今日的意義」早稲田法学 55(2) 1980/03 13-70
小口彦太「『中国農慣行調査』をとおしてみた華北農民の規範意識像」比較法学 14(2) 1980/06 1-71
中国農村慣行調査委員会編『中国農村慣行調査』岩波書店 全6巻 1981年刊(1952年から58年に全6巻刊行されたものの復刊)
小谷朋弘「末広厳太郎の法社会学」社会分析 20 1992 1-19
佐藤晋一「国立国会図書館法・議員法制局法・内閣法制局ー「立法」の論理(1)」茨城大学教育学部紀要(教育科学)45号 1996/03 307-328
末弘厳太郎著 佐高信解説『役人学三則』岩波現代文庫 2000/02
道幸哲也「労働組合法はどうなるか」中央労働時報 968 2000/05/10 2-10
石田眞「植民地支配と日本の法社会学―華北農村慣行調査における末弘厳太郎の場合」比較法学 36(1) 2002 1-16
馬場健一「「科学的」調査と研究者の政治責任ー華北農村慣行調査とその評価をめぐって」法社会学 57 2002 170-190, 261
武藤秀太郎「平野義太郎の大アジア主義論 中国華北農村慣行調査と家族観の変容」アジア研究 49(4) 2003/10 44-59
六元佳平・吉田勇 共編著『末弘厳太郎と日本の法社会学』東京大学出版会 2007/04
渡辺新「東亜研究所小史」政経研究時報No.13特別号 2010/03 1-12 渡辺によると末弘と中国慣行調査との関係は1939年春には始まっている。
小林智「末広厳太郎の判例研究方法論とその限界」HERSTEC 4(2) 2010 41-58
渡辺新「政治経済研究所設立史:いままた政経研の成立過程を振り返る」政経研究 98 2012/06 1-24
出口雄一「戦時・戦後初期の日本の法学についての覚書(2・完)」『桐蔭法学』20(1) 2013/12 33-88
労働関係法令立法史料研究会 労働組合法立法史料研究(解説編) JILPT国内労働情報14-05 2014/05
「我妻榮の判例カード」我妻榮記念館だより19号 2014/10/27 p.2 末弘厳太郎教授の提唱により大正10年に法学部内に判例研究会を発足し、穂積・田中などの諸先生も交えて、議論されながら、先生(我妻榮)が書きためられたものが、(7000枚に及ぶ)判例カードです。
石井 保雄「わが国労働法学の生誕:戦前・戦時期の末弘厳太郎」獨協法学 96 2015/04 21-145
中窪裕也「労働組合法、2つの立法過程と史料研究」Business Labor Trend 2016/04 3-7
山口浩一郎「労働委員会の安定的運営と活性化について」Business Labor Trend 2016/04 12-21
澤田大祐「国立国会図書館の国会サービス」『情報管理』59(8) 2016/11 505-513
長谷川貴陽史「末弘厳太郎と私たち」日本法社会学会年報104 2016/09 1
長谷川貴陽史「末広厳太郎におけるデモクラシー概念の変質」論究ジュリスト 30 2019 159-166
長谷川貴陽史「末広厳太郎におけるデモクラシー概念の変質」法学セミナー 785 2019 19-24
日本法社会学会編『利谷信義先生オーラルヒストリー(2009年5月8日実施)』日本法社会学会 2020/01/28
小畑精武「東京下町の労働運動と東大セツルメント」現代の理論22 2020/03
川角由和『末弘厳太郎の法学理論』日本評論社 2022/02
松尾陽「日本の法学教育」名古屋大学法学部サマースクール 2022/08/08
福光寛「政治経済研究所の沿革」Note 2024/05/23
末弘厳太郎『末弘厳太郎新評論集』書肆心水 2024/07
東亞研究所関係資料
柘植秀臣『東亜研究所と私』(勁草書房 1959)から 小田光男氏の紹介 古本夜話580 2016/09/11
江副敏生「20世紀日本人と中国人の中国認識と中国研究(11)幻の研究所―東亞研究所について」『中国研究月報』1999年10月, 10-27:この江副論文はScience Portal Chinaに収録されている。Science Portal Chinaの検索機能で著者検索で江副敏生で検索するのが簡単。
渡辺新「東亜研究所小史」政経研究時報No.13特別号 2010/03 1-12 渡辺によると末弘と中国慣行調査との関係は1939年春には始まっている。つまり東亜研究所と末弘との関係は、かなり深かったとみるのが至当である。
政治経済研究所関係基本資料(再掲)
政治経済研究所 沿革(公益財団法人政治経済研究所HP)
昭和22 1947/1 末弘厳太郎「本研究所の意図するもの」政経資料月報Vol.1.1 1-2
昭和26 1951/09/15 政治経済研究所「故末弘厳太郎先生を憶う」『政経調査月報』No.27 1951/09 表紙見返し
市川弘勝「30周年をむかえて」政経研究 21 1976/11 1-2 :この30周年記念号序文において、理事長の市川は、占領軍当局から解散を命ぜられる公算が大きかったので、その前に自主的に民主的な民間研究機関に改組しようとする動き」として「末広先生などが中心になって、民間研究所への改組の企画が進められた。しかし「結局、大規模な総合研究所構想は実現しなかった」としている。末弘については、「法律分野においても早くから実態調査を重視されていた方」として、「政治経済研究所の設立にあたっても、実態調査を重視され、実態調査を基礎として理論の構築、研究成果の取りまとめを強調されていました」と結んでいる。また焼津の漁業調査にみずから参加されたことは、死期を早めたよさえ言われたほどだと言葉を添えている。さらに研究所の歴史を振り返る箇所では、「諸官庁の委託調査を軸として、主として実態調査を中心として調査研究活動おこなって」きたことをもって、「設立目的に向って努力」してきたことの裏付けとしている。市川の記述は疑問が多い。市川は末弘が在籍していた時の職員ではない。また末弘との面識も確認できない。(福光)
末弘厳太郎「本研究所の意図するもの」政経研究 21 1976/11 3-4
平野義太郎ほか「座談会 政治経済研究所創立のころ」政経研究 21 1976/11 5-23
「政治経済研究所創立までの主な会議録」政経研究 21 1976/11 24-31
「委託調査の実績(昭和21-25年度)」政経研究 21 1976/11 38-39
「主要公刊図書」政経研究 21 1976/11 50-52
渡辺新「政治経済研究所設立史 いま、政経研の設立過程をふり代える」『政経研究』No.98 2012/06 1-24 :東研を渡辺は「満鉄調査部とならぶ国策調査研究機関であり、戦時国家機構における国策立案装置の1つとして位置付けられ、機能していた」と総括する。渡辺によると、研究所所長に復帰した大蔵は、新国策研究機関を構想し、1945年9月1日には、末弘厳太郎、金森徳次郎など7人を集めて協議を行った。その後、軍人出身の理事を辞任させて、末弘、金森を理事に就任させた。その後、従業員組合による民主化運動により、大蔵さらには金森まで退任を迫られるなか、東研の将来を担う立場に立った末弘は、当初この大蔵の構想をベースに東研の将来を考えていたとみてよいだろう(同前 2-3)。(福光)
福光寛「政治経済研究所の沿革」Note 2024/05/23